見出し画像

第7回KLA日本語作文大会、受賞作品をすべて大公開します!

京進の日本語学校KLAで開催された「第7回KLA日本語作文大会」の受賞作品を紹介します。どの作品もひとりひとりの思いがしっかり伝わるステキな作品です。

今年の作文のテーマは「変化」
昔の自分を思い出してみてください。今の自分と同じですか。10年後をイ メージしてみてください。まわりの人や生活はどうなると思いますか。世界はずっと動いていて、いろいろなことが変わっていきます。その中で、私たちは何を感じるでしょうか。どんなことに気づくでしょうか。

第7回KLA日本語作文大会 受賞者作品


★金賞の作品《初級の部・中上級の部》

【初級の部】金賞
🥇チン ホウジュン(OLJ校)

📗タイトル:『変化と独立思考』
 世界では、毎日変化しています。ほぼ毎月、新しいものが発明されます。多くの人々は時代を取り残されないように心配しています。マスコミも時代遅れとならないようとよく言い続けています。多くの人々は世界中の変化を見て、自分自身も変えるべきだと考えています。
 しかし、すべての変化は良いわけではないと思います。例えば、最近、世の中に電気自動車はとても人気になります。政治家や企業電気車がガソリン車より環境に優しいと言って、電気自動車の販売を推進しています。多くの人々はこの変化を捉え、環境保護のために、自分のガソリン自動車を電気自動車に交換しました。しかし、電池原材料リチウムイオンを製造する際にも環境汚染が引き起こされます。電気車の使用寿命も短くて、使用済みの電池をどう処分するかも大きな環境問題になると思います。電気自動車を交換するという変化は本当に環境に優しいでしょうか?
 したがって、他の人の正しそうな変化を見て、自分も他人のやり方をそのままで盲従するのは、大きなリスクに伴うと考えられます。多くの変化に惑わされなく、自分で独立して考えて、利点と欠点をよく分析して、それから、自分で判断するのはすごく重要だと思っています。

【中上級の部】金賞
🥇ドー チュオン アン(神戸校)

📗タイトル:『再び日本への挑戦・新たなる旅立ち』
 私は32歳の男性で、9年前に技能実習生として初めて日本にやってきました。当時はまだ若く、未知の国での生活に胸が躍りました。技術を学び、異文化を体験する日々は、私にとって貴重な成長の機会でした。実習が終了し、故郷に帰国した後、私は6年間、安定した日本語教師の仕事に携わりました。生徒たちとの交流や日本語の普及に貢献することは、私にとって非常に充実感を与えるものでした。しかし、人生には変化が訪れるものです。
 3ヶ月前、私は再び日本に戻りました。今回は留学生として新たなる挑戦をするためです。この決断は多くの人にとって驚きの連続でしたが、私自身は心からの意思決定であり、新たな可能性を求める勇気を持っていました。留学生として日本に戻ってから、私はまるで新たな世界に足を踏み入れたかのような感覚を覚えました。以前の実習生時代とは違い、今回は自由な時間と選択の余地があります。私は日本語学校に通い、多様なことを学び、新しい知識を吸収しています。授業では留学生仲間と意見を交換し、他の国の文化や背景について学ぶ機会も得られました。これまでにない学習環境で、私の視野が広がり、自己成長の機会が与えられています。日本に戻ることで、私は再び未知の道に立ち、新たな経験を積むことができます。留学生としての生活は、以前とは異なる刺激と興奮が満ちています。
 この新たなる旅立ちは、私の人生におけるユニークな転機となりました。自分を再発見し、新しい環境での挑戦に向けて、不安と希望が入り混じった感情が胸に渦巻いています。しかし、私は前向きな姿勢を持ち、困難に立ち向かいながら成長していく覚悟を持っています。この変化は、私にとって自己啓発の機会でもあります。新しい出会いや異文化交流を通じて、広い視野を持ち、多様性を受け入れる力を養っていきたいと思っています。また、自身の経験を生かして他の留学生や日本への関心を持つ人々に助言やサポートを提供することも考えています。今回は、私にとって人生のページをめくるようなものです。失敗や困難があるかもしれませんが、それらを乗り越えて成長し、自分自身を超えることが目標です。日本での留学生活を通じて、私の人生に新たな色彩を加えることを心待ちにしています。
 私の留学生活はまだ続いており、これからも新たな挑戦や発見が待っています。しかし、今の私には留学を選んだことへの確信と満足感があります。日本での留学生活は私の人生において大きな変化をもたらし、私がこれまで経験した中で最も貴重な旅の一つとなりました。この経験を通じて、私は言語や日本の文化への理解を深めるだけでなく、自分自身をより深く理解し、未来への希望と自信を抱くことができました。
 以上は私の変化です。変化は時に新たな機会や成長の道を開くことがあるので、変化を追求することは素晴らしいアイディアだと思いませんか。良かったら、何かを変えてみませんか。

★銀賞・銅賞の作品《初級の部》

【初級の部】銀賞🥈
テッ テッ ウィッ トゥ アウン(ヤンゴン校)

📗タイトル:『不確実性の中での希望』
 人生において変化とは予測できないものですが、それは私にとっても例外ではありません。10 年前、私は 15 歳の子供で、生きることに悩むこともなく、さまざまな将来を想像し、将来は成功が待っていると信じてい ました。 しかし、COVID-19 の発生とそれに続く軍事クーデターが私の旅路を変え、大学生活は静寂から混沌 へと変わりました。その中、私は個人的と職業的な挑戦に直面しました。失恋、キャリアの不確実性、そして社 会の期待の重荷が日々の生活を覆いました。 この荒れ狂った時期が変容のためのるつぼとなりました。希望の光は Kyoshin と ACE の RISO プログラ ムからの奨学金として現れました。これは私を不確かな深みから引き上げる救いの手となりました。新たな決 意をもって、私は 2 年以内に日本で働くプログラマーになることを決意し、新しい言語を学び、プログラミング を磨く日々が逆境からの夢への道を切り開いていきました。 期待が高まる中、変化の不確かさと興奮の中で成長している自分に気づきます。10 年前の未来と現在の状 況は異なっていますが、変化の中で見つけた意味と希望は変わりません。未来への扉が開かれ、新しい章が始 まります。日本でのプログラミングの道で、私は夢の変容を追求し、変革の物語を喜ぶ古い心を持つ方々にも 訴えかけることを願っています。

【初級の部】銅賞🥉
ソン シンセン(OLJ校)

📗タイトル:『変化、そんなに嫌じゃない』
 変化は本当に嫌です。元々家にあったものをたくさん持ってきたので、留学の荷造りに時間がかかりました。行く前に残念だったのは好きな鍋を食べなかったことです。
 未知の変化にはイライラし、処理できるか不安です。雨は最も一般的な天気の変化で、私は来日初日は雨でした。髪が濡れるのは嫌でした。道に迷うのは嫌でした。下手な日本語で店員さんと交渉するのも嫌でした。その夜、電気を消し、マットレスのないベッドに横になると、窓の外の夜は海のように深く、変化に飲み込まれていくような気がしました。
 しかし、日本に一人で来た私は自分で問題を解決しなければならないでした。翌日、家を出る時にまた雨が降って、最初に行った中古店は閉まっていました。めげることなく、別の店に行きました。レバノン人の店主とは、英語と日本語を混ぜて話し、スムーズに話が通じました。その日、炊飯器で香ばしいご飯を炊きました。
 平穏は安定で退屈なことを意味し、変化は不安定で新しいことを意味します。以前は日本に来て友達ができないのが怖かったのですが、今はお隣さんがうどんを作ってくれます。生活はこのようです、大きな変化と規律は並行して、避けられなくて、平然としていいです。この世界で唯一変わらないのは変化だけだと、私はやっと分かりました。小さな変化を受け入れるようになりました。残念な鍋の話に戻りますが、新しい友達と東京でおいしい鍋を食べました。

【初級の部】銅賞🥉
ヨウ セイカ(DBC校)

📗タイトル:『変化』
 「あなたはタンポポ派ですか、ひまわり派ですか?」と、好きなアニメ『sonny boy』のヒロインが主人公に尋ねました。ひまわりは遠い太陽を追いかけて根付き成長して、一方でタンポポは地面から離れて遠くへ飛んで行きます。もし私が答えるならば、私はタンポポ派だと言います。変化を楽しみ望んでいます。
 今の私は故郷を離れて知らない町で一人暮らししています。以前もよく一人暮らしをしていたのに、前により今変化は多かったです。例えば、本を読みたい時には一人で本屋に行って座っていて、新しい服が必要な時には一人でショッピングに出掛けます。一人で出かける時間が増えるに連れて、自信がないから起こるの日本語の問題もどんどんに減りました。試験ではなく、コミュニケーション手段として言語を使うことが増えました。それに、料理する機会も増えました。便利なデリバリーではなく自分自身が苦手だった料理に挑戦することもあります。「じゃが芋」が特に好きで、じゃが芋はどんな野菜やお肉と組み合わせても美味しく食べられます。自分で作ったご飯を食べる度幸せ感じることもあって、これまでは経験なかった感覚です。
 将来もこのように勇気を持って探求して行くつもりです。「タンポポ」のように変化を恐れず楽しく生活します。

【初級の部】銅賞🥉
ミン カン ウェ(ヤンゴン校)

📗タイトル:『自己変化』
 私はむかしはわるい人でした。たばこを吸うし、ゲー厶をし、仕事にきょうみがありません。私は母のアドバイスを聞きませんでした。ある日、よぱらって家へ帰りました。よく朝、母は泣いてぐずり、父は私に話しかけなくなりました。それから私は自分がまちがっていたことに気づきました。全てのことを変えることにきめました。
 私は仕事をさがし、しゅうしょくしたのはけんせつきぎょうでした。しゅうしょうくしてはじめてげんばで働くことのたいへんさがわかりました。しょくばにつとめてやく5か月後、母から電話がありました。母は私に家に帰るように言いました。家に帰るといぜんと違って家事を手つだってくれてびっくりしました。すうじつご、私は両親と自分のしょうらいについて話しました。母は私にしょうらいに日本で働くきょかをあたえてくれました。
 しょらいのために両親とはなれて一人でヤンゴンに来てから日本で働くつもりで日本語を勉強しました。私は今、スキルをアップさせるためた日本語を勉強しています。日本に行き、日本で働き、もらった経験をミャンマーに戻って、自分の会社を作ってせいこうできるようにがんばります。私は今日本語を勉強中ですが、しょうらいはりょうしんにほこる子になれるまでどりょくします。


★銀賞・銅賞の作品《中上級の部》

【中上級の部】銀賞🥈
カ シカ(OLJ校)

📗タイトル:『風が吹いた後』
 私にとって、変化とは風のようなものです。風が吹いたら、いろいろなものの位置が変わってしまいます。私はこの変化は嫌ですが、でも力が及ばない。次の風が吹く前に、現状を受け入れるしかないのです。
  私の24年間の人生で一番強い風は、12年前に私の弟の出生です。この風は今まで私に影響を与えてきました。弟が生まれた時私が12歳です、両親は私に黙って香港で弟を出産しましたが、母はまだ手術台に乗っている時、医師は母に彼はダウン症候群であることを通知しました。 12 歳の私は、この病の意味はわかりませんでした、両親がなぜいつも悲しんでいるのかもわかりませんでした。正月に故郷に帰ったとき、年上の人たちが私にいつも「これからあなたは弟の面倒をよく見ないといけない。弟のこともあなたの責任だよ。」と言っているのですが、私も理解できませんでした。
 その時、私は若かったので、実は記憶があまり鮮明ではありませんでした。 でも、初めて弟に会った場面が覚えています、彼は先天性心疾患の手術を受けていたため、保育器の中に横たわっています、小さな体に医療用の管が何本も差し込まれていていました。その時、「この変な人は私の弟だか。」、私はただ奇妙に感じました。次の日、両親が私をディズニーランドに連れて行ってくれて、私はすっかり夢中になってしまいました。その時、その風、わたしの心の中あまり止まっていなかったです。
 だんだんと、私の弟が他の人と違うことがわかってきたようでした。外出する時、好奇な子どもたちは「なぜこんな目なのか」と聞きました、ある日、他に子供たちが「あなたの目がおかしい、悪人の目だ」と言い続けていて、彼たちは弟に指で指しました、彼は何が起こっているのか分からずぼんやりに立っていました。その日、お母さんはずっと泣いていたそうです。
 実は、本来のわたしは気弱の人でした、でも、だんだんと私はもう姉だ、弟を守らなければいけないという意識が芽生え、性格が強くなっていきました。私自身の力はとても弱いですけど、定期的にボランティア活動に参加し、半年ごとに献血をしていきます、このようにして、弟のような人々を助けることができればと願っています。
今では私の弟は輝く水晶のようで、いつも私に「お姉さん、愛してる。お姉さん、素晴らしい。お姉さん、今日は綺麗だね。」と言ってくれます。この小さな人は太陽のような存在で、私に温かさと強さを与えてくれます。この病気のせいで、彼はいつも変化できませんか、風を感じず、彼の世界はいつもとても純粋なので、私は彼のことを羨んでいます。
風が吹いた後、遠くから種が運びました、その種が根を張り芽を出しました、唯一無二の花を咲かせました。

【中上級の部】銅賞🥉
リ カ(新宿校)

📗タイトル:『私の大切な変化』
 私は変化が苦手だ。新しいことに挑戦するより、のんびりした生活が好きだ。年を取るとともに、自分の将来に期待する気持ちが段々薄れてきた。しかし、今よりもっと若い頃は、今とは違う考えを持っていた。
 学生の頃にシンプルな生活を送っていた私は、勉強以外に好きなものは、日本のアニメのみだった。周りの人に理解されなかったが、それが私にとっては大事なものであり、自分を支えてくれたものでもあった。これをきっかけに、日本に対して興味がわき、日本語の勉強も始めた。そして、日本に留学するという考えが芽生えたので、未来に希望を持ち始めた。周りの人が将来に悩んでいた時、私はとっくに自分の目標を見つけ、それに向かって頑張ろうと決めた。その頃の自分は本当に幸運だと思っていた。
 しかし、2つの問題が生じた。まず一つ目は、自分の学習能力を過大評価していたことで、日本へ留学するために必要な日本語レベルに到達出来なかったことだ。そして二つ目はコロナのことだ。その時には留学しようとしたが、行けなくなり、大学卒業後に留学する計画が台無しになってしまった。そのため、卒業したばかりの私は将来への希望を見失ってしまった。何をすべきか分からなかった。ただ諦めるわけにはいかないと思い、中国で日本語の勉強を続けながら、フリーターとして働くことにした。
 その頃、不安に包まれた私にとって、仕事は唯一価値があるものだった。全ての時間を仕事に捧げ、週末も休まずに働いていた。しかし、仕事を本当に楽しんでいたわけではなく、ずっと日本に留学したいという思いで頑張っていた。また、学生から社会人になった生活にはなかなか慣れず、私が求めていたものと随分違った。どれだけ仕事に没頭しようとも、心の中に何かが足りないという感じがあった。そこで心理カウンセリングに通い始めたが、現実の問題をなかなか解決することはできなかった。
 その後、1年以上が経ちコロナの影響も薄れ、やっと日本へ留学するという夢を叶える条件が整ったとき、私は再び迷った。今の生活に慣れてきた私が、再び学生という身分に戻ることに不安を感じた。大学時代には考えたことのない経済的な問題や将来に対する不安、進路などに直面しなければならない。たとえすぐ日本に行っても、昔のように何も怯えず前に進むのは難しいだろう。そのような気持ちで私は日本に来た。ワクワクしているはずなのに、精神的なリラックスは一瞬たりともできなかった。日本へ来てからの生活の変化に伴い、進学に対する不安も増してきた。経済の面で両親に頼ることも気になり始めた。カウンセラーに状況を報告したら、「それは中国にいた時と同じではないのか」と言われた。
 その時、私は初めて、日本に来ても昔の自分には戻れないとわかってきた。人も環境も気づかないうちに変わっている。かつて観光客として日本に来た時に感じたことと、今留学生として再び来た時の感じは完全に異なっている。過去のようなアニメの世界にひきこもるのは得策ではなく、今の自分にふさわしい生活スタイルを見つけることが大事ではないかと思う。今は、学校で先生と今の友人と知り合い、順調な生活を送り、満足している。挑戦はまだたくさんあり、未知の変化もたくさんあるが、もう心配する必要はないだろう。 
 「僕とシッポと神楽坂」というドラマが大好きなので、神楽坂に住むことにしたが、勉強と仕事が忙しく、周りを歩く時間が全くない。しかし、ある日神楽坂通りを歩いているうちに、赤城神社を通りかかって善国寺までいった。この活気がある賑やかな景色に感動し、心が一瞬静まった。私はいつも過去に囚われていたので、周りの多くの風景を見逃していたことにやっと気づいた。
 私にとって最も重要な変化は、日本に来たことより、むしろ変化自体に慣れたことだった。

【中上級の部】銅賞🥉
ヨハン アクセル トールワルド リンドクイスト(OLJ校)

📗タイトル:『手の痛み』
 私の手はよく痛くなってきている。
 私は、左利きの子で育った。自筆が悪く、それに加えて、頑張って集中しても、中々できなかった。親や先生はよく怒られていて、なぜきれいに書かないの、みんなのように、とよく言われた。小さい子として、私もよくわからなかった。そして、手が痛くなるまで文を書かせた。それで、一つのことはわかっていた。手で書くことは、本当に大嫌いだった。もし手で、何かを書くという活動があったら、私は早く終わりにしたいという目的しかなかった。だから、学校でパソコンが紹介されてから、ようやく安心感を感じた。急に、私でもどのペースでも作文が書けた。早くだけなく、みんなより上手く意見を伝えて、みんなより早めに書き終わらせた。文章を読めば理解できるから、理解できると頭に入る。情報はもう読むのが好きおかげ、多くの情報は頭の中にあったので、パソコンで書くと、問題が一つもない。それから、パソコンで勉強することが、私の一般的なやり方になってきた。高校の専門を選う時期、さすがにクリエイティブな方を選んだ。メディアという専攻の上で、撮影や報道を勉強し始めた。報道はもちろん、ほぼ書くことしかなく、記者はパソコンで記事を書いているだろうと思いながら、記事を書い時、紙とペンを一回も使わなかった。
 現在、日本に住んでいる。たまたま引っ越したといってもいい。昔の私は、みんなのように日本に住んでみたいのような夢がなかった。実は、初めてに日本に来た理由は海外出張であった。だが、初めて日本に来た時、やはり何かを感じた。その何というのは、中々説明できないことである。不思議だろう。今も、よく考えても、その何はまだまだ、これから見つかれることのか、と思ってしまう。だけど、その何のおかげで、詳しく説明ができなくても、この国に住んでみたい風になってきた。しかし、この国に住もうと思ったら、必ず逃げられないことは一つがあった。それは、日本語を学ぶことだ。日本語。ヨーロッパでは、世界中で最も難しい言語として知られている。多くの人々は試さず、また多くの人は、一年を勉強しても初級でもまだなっていない。それで、諦めてしまう。それぐらいの難しさである。最初、日常会話を話せば、十分じゃないのか、と思いながら生きていった。多く言葉の意味を学んで、人々の話を聞くと大体分かるのかと思い、そのような作戦を持ち、日常会話になるだろう。それで、日本語が少しずつ分かってきた。ただ、少しずつ話すことはできても、漢字は中々覚えられなかったから、読書はできなかった。ある文章では、一つの漢字の意味が分かっても、あと知らない100個が残っいた。覚えるように、多くの勉強の方法を試しても、すぐ忘れてしまった。何度もを読んでも、なんとなく覚えられなかった。やはり、筆舌は絡み合っているから、言語を読めないと中々話さないだろう。だが、一つの方法が残っていた。私の大敵。結局こうなった。ペンと紙を使えば、何度も書いて、覚えられるのかな、試すしかないと思いながら、書き始めた。それ以来、今もそうしている。そのせいで、左の手は非常に痛くなってしまう。毎日毎日、座りながら書いている。何度も、頭が真っ白になり、手がしびれるまで。それで、まだ大嫌いなのに、紙とペンで何度も書いている。効果があるからだ。そのおかげで、言葉を聞くと、想像ができなくても、手は自動のように書かれている。もちろん、何度も書いても、忘れてしまう場合はまだある。日本の人と比べると、初級でもない。また日本語学校で、一般の学生と、そこでも負けてしまうと思う。しかし、昨日の私と比べたら、もう少し上手くなってきただろう。
そのため、手が痛くても気にしない。
 その痛さはいいことだから。その痛さは努力を象徴するからだ。少しだけでも、その痛さは、私自身が少し良くなっている変化からだ。

【中上級の部】銅賞🥉
コ ジョウセン(OLJ校)

📗タイトル:『変化への適応:人生の不可欠な一部』
 変化は、私たちの人生において不可避なものだ。時折、変化は喜びや新たな機会をもたらす一方で、時には不確実性や不安も伴う。しかし、変化が私たちの周りの環境や状況を塗り替えることなくして、成長や進歩はあり得ない。
 私の人生は、小さい頃から絶え間ない変化の中にある。うちの両親は、居心地のいい環境から一歩踏み出すようにと助言してきた。中国、アメリカ、そして日本での一人暮らしは、私に様々な文化や経験を体験させてくれた。
十歳からの小学生時代は、私にとって根底を築く重要な時期だった。私は若い頃、両親にとても依存していた。 あまりに依存心が強かったので、自立心を養うために両親は私の小学生のときに全寮制の学校に入れさせられた。最初は環境になかなか慣れず、涙ばかりだった。家では食事の際に必ずテレビを見ながら食べていたが、学校にはテレビがなかった。生活習慣も人も異なる環境で、全てが初めての経験で、不安だらけだった。それでも、新しい友達との出会いを求めて積極的に関わり、友達との絆ができることで、家族への依存心も徐々に和らいでいった。
学校生活に順応する頃、新たな変化が訪れた。私は自立心が芽生えるにつれ、アメリカの大学に進学することが良い選択だろうと考えるようになった。これに伴い、新しいチャレンジが出てきた。一人暮らしだけではなく、食生活をより豊かにするために専門的な料理も学び始めた。オンラインのビデオを見たり、レシピのリストに書いてある食材を用意したり、作り方によって調理して料理を作ったものだ。また、言語学習得も重要な日課であり、1日に400~800語の英単語の暗記やアメリカのテレビドラマを視聴するなど、様々な取り組みがあった。これらの試練は一つ一つが大変だったが、成長の過程であると捉え、前向きに取り組んでいる。
大学を卒業した後、日本にきた。来日の理由については、大きく2点ある。1つ目は、彼女が日本にいたので、一緒に暮らしたいと思い、大学卒業と同時に来日を考え始めた。2つ目は、日本の文化は中国とよく似ているので、帰属意識や文化的アイデンティティをより強く感じることができるからだ。だから今回も、自分の居心地のいい場所から二度と踏み出して、新たな環境への挑戦を重ねに来たんだ。しかし、予想外の変化が急に訪れた。残念ながら、高校時代からの彼女との別れがあり、一人になちゃった。日本はやはり寂しい国だと思った。日本語も知らずに最初から新しい言語を勉強しなければならなかった。愛情がなくても、少しずつこの国が好きになっていくのがわかった。例えば、日本の文化の一つを代表し、居合道という運動にも好奇心も持って、学び始めた。それをきっかけに、日本人の友達との出会いもあった。そして、日本料理はとてもおいしい。 私にとって料理は癒しの薬のようなもので、食べるたびに幸福感を与えてくれる。 焼肉、寿司、しゃぶしゃぶなどはもちろん、ご飯だけでも大盛り3杯は食べられる。それで、日本に住むのもいいなと思うようになり、目標に向かって努力するようになった。

【中上級の部】銅賞🥉
リ テンエキ(OLJ校)

📗タイトル:『父の年輪』
 我が家には20年以上飼っているカメがいて、甲羅に同心円状の紋様がたくさんもっている。16歳のとき、カメをそっと持ち上げ、その紋様を見つめたことがあった。
 「甲羅の紋様は、カメの「年輪」だ。1周ごとに1年を表す。」見とれている私の横で、父が言った。
別に見とれているわけではない。その年の私は目がひどくなり、マイナス4近くになっていたが、メガネをかけていなかった。その頃うちは経済的に恵まれていなかったし、メガネをつくるにはかなりのお金が必要だった。なんとか我慢しようと思い、いつも目を細めてものを見ており、ものを見るたびに長く留まっていた。周りからは何かに見とれているように思われがちが、近視でよく見えなかっただけだ。
 しかし、父の話に興味が引かれたのは事実だ。私はカメの甲羅をもっとよく見た。「一年ごとに新しい筋ができるのか。これは明らかな変化だね。でも、人間の体はそうはいかない。そうなったら、お父さんはいつまでも20歳だなんて言えないよ。」
私と父はげらげら笑った。
 その年の私は中学を卒業したばかりで、それから高校でもっと複雑な勉強をしなければならないと思い、近視の不便さを実感した。その後、父が眼鏡をつくるために連れていってもらった。私はメガネ屋で一番安いものを選んだ。父はにこにこしながら、「いいんだよ、買うなら一番いいのを…」と言ってくれた。父は私にもっと高いメガネを選んでくれた。
少し緊張と驚きが生じた。三年近く近視になったが、まだメガネをかけたことがいなかった。私の世界は少しずつぼやけていき、雨がぽたりぽたりと窓に降り注ぐように、だんだん何も見えなくなっていった。私はメガネをかけ、雨がぐさっと拭かれるのを楽しもうとしていた。     
 「どうか?はっきり見えるか?」父の声が耳に届いた。明るい声だったのに、私が首をひねった瞬間、急に遠くなってしまった。あれほどはっきりと父の顔を見たのは三年ぶりだった──目尻の皺は深くなり、額や鼻の横には新しい皺がたくさんでき、日に焼けた肌には年月の跡がいくつもできていた。こめかみの髪はすっかり白くなっていた。子供の頃の私は、彼の背中に伏せて白髪を抜いてあげるのが大好きだった。今の彼は、なんと黒髪と白髪が同数になっていた。
 父は年をとった。
 「どうか?はっきりか?何か変わったか?」父は話続けていた。
 父は年をとった。と思った。
 私はすぐに顔をそむけ、彼を見なかった。それは私が近視になった以来唯一のものを見るに時一つの方向に長く滞在していなかったことだ。目を細めてしげしげと眺めるのは慣れていたはずなのに、その瞬間、父の老いがナイフのように突き刺さってき、それ以上見ることができなかった。 父は年をとった。彼はいつ年を取ったのか。私が中学生になってから、心配事を彼に話さなくなり、クラスメイトと話すうちに年を取ったのだろうか。新しいメガネを買ってもらうために働いているうちに年を取ったのだろうか。カメの年輪に合わせ、一周一周と、一年一年と、時間のすきまに、ひそかに年を取ったのだろうか。
 父がそのメガネを買ってくれた。帰り道、父の手を引いて言った。「お父さん、メガネをかけてあなたを見ると、なぜか若く感じる。20歳に見える。」父は私の話を聞いてまだげらげら笑い出した。
 父は永遠に20歳ではなく、45歳になっていた。私はぼんやりとした視界の中ですべての変化を無視していた。父がメガネを買ってくれたことは、今でも感謝している。そのメガネは世界がどのように変化しているのか、生活がどのように回っているのか、父がどのように小さな体で私たちの大きな家を担いでいるのかをはっきりと見させてくれた。
 私の世界がはっきりした。父への愛はますます深まった。

【中上級の部】銅賞🥉
ゴ イテイ(DBC校)

📗タイトル:『実家のビワの木』
 小学時代、私は祖父母と一緒に田舎の家に住んでいた。家の前にはビワの木一本があった。このビワの木は誰が植えられ、いつ植えられたのか、誰もはっきり覚えなかった。祖父はいつも冗談としてこのビワの木の起源を言って、彼は私が生まれた年にビワの果核を勝手に土に投げて、間もなく芽を出した。水やりもせず、丁寧に世話をしなかったけど、木に成長してしまったんだ。
 このビワの木はまるで窓のようで、私たちを守ってくれた。夏の強い日差しを受けず涼しく過ごせたり、冬の寒さを凌いだりできた。
放課後、私はいつもベンチを木の下に運んで、そこで絵を描いたり、宿題をしたりした。時々、友達と一緒に木の下でゴムを飛んだり、おはじきをしたりした。木の下に座ってヒグラシの声を聞きながらアイスを食べつつ風景を眺めた体験が今でも忘れられない。
 天気がいい時、木の下で夕食を食べることもあった。夕方には暗くなって、祖父は家から電線を引っ張り出してきて、その先に電球をつけて、木の枝に吊った。揺れる光の中で食事をするのは、私たちのキャンプ時間だったのでしょう。平凡だが、私にとってはかけ替のない幸せだったと思う。
中学に進学するために、両親と一緒に隣りの区のアパートに引っ越しなければならなかった。木の下で遊んだり、食事をしたりするわけにはいかなかった。
 2年後、新しい農村建設政策の改革にしたがい、祖父母も実家から離れてアパートに引っ越した。彼らはビワの木を連れて新居の下の花壇に移した。
大学三年生の時、ふるさとで発生した大雪によってビワの木が傾いてしまった。すぐに積雪を掃除し、傾きを直して支柱で補強をしたが、この木は結局倒れた。
 数年前、祖父がアルツハイマー型認知症にかかった。すべてのことを忘れたと思ったが、彼は時々ビワの木について話してくれた。
今年の年始に、病気で祖父が逝去された。母からもらったビワの木の写真を見るにつけ、祖父と一緒に暮らしていた時を思い出すことできる。これからもこの懐かしく思いと一緒に生活しているだろう。
人はいつかこの世に生まれ、この世を生き、そして、いつか必ずこの世を去って行く。人生はどんどんと移り変わってゆくことだ。しかし、変わらないこともあるわけだ。


受賞者の一覧はコチラ👇

【初級の部】
🥇金賞
チン ホウジュン「変化と独立思考」(OLJ校)
🥇銀賞
テッ テッ ウィッ トゥ アウン「不確実性の中での希望」(ヤンゴン校)
🥇銅賞
ソン シンセン「変化、そんなに嫌じゃない」(OLJ校) 
ヨウ セイカ「変化」(DBC校)
ミン カン ウェ「自己変化」(ミヤンゴン校)

【中上級の部】
🥇金賞
ドー チュオン アン「再び日本への挑戦・新たなる旅立ち」(神戸校)
🥇銀賞
カ シカ「風が吹いた後」(OLJ校)
🥇銅賞
リ カ「私の大切な変化」(新宿校)
ヨハン アクセル トールワルド リンドクイスト「手の痛み」(OLJ校)    
コ ジョウセン「変化への適応:人生の不可欠な一部」(OLJ校)
リ テンエキ「父の年輪」(OLJ校)
ゴ イテイ「実家のビワの木」(DBC校)


受賞者のみなさんの作品は、ひとりひとりの気持ちや考えがしっかりと読み手に伝わる、ステキな作品ばかりでした。
さまざまな変化の中でそれに気づかず生きている私たちですが、このようにふと立ち止まって自分を見つめ直してみると、自分の成長や変化に気づかされます。昨日より今日、今日より明日がよりステキな自分でいれるように、毎日を過ごしていきたいですね😄

京進の日本語学校KLAについて詳しくはこちら
https://www.kla.ac/jp/  


この記事が参加している募集